教会に来たいけれど、教会に足を踏み入れるのには勇気がいる・・・そういう方が多いと思います。人が集まる初めての場所に行くのは不安が多いものだと思います。このページはそんな方々の不安を払拭するために作られました。ぜひ、一度お読みいただき、あまり気負わずに教会に足を運んで頂ければ幸いです。
「私が教会に行ってもいいの?」と思っているあなたへ
教会は、聖人君子が集まるところ・・・もしかすると、そんなイメージを抱いておられるかもしれません。
しかし、実は、決してそんなことはありません。キリスト者(クリスチャン)は、自分たちがどれだけ罪深いかを知って、悔い改め、主イエス・キリストによって赦しをいただいて、新しい人生を生き始めた者です。
ですから、キリスト者は、自分の罪や醜さ、悲惨さを、不十分ではあっても、よく知っている人々です。きよらかで立派な生活を送っている人々、というよりも、むしろそんな理想から遠くかけ離れた自分の醜い姿を知り、それゆえに神の赦しと助けを祈り求め続ける人々です。
もちろん、教会に来ている人の中には、イエス・キリストというお方をまだよく知らない人、信じていない人、洗礼を受けておられない人もおられます。また、いうまでもありませんが、信じなければ教会に来てはいけないわけではありません。そもそもすぐに信じられるわけでもないでしょう。信じるつもりは今のところないけれども、何か生きるヒントを求めて来られる、というのでも大歓迎です。なんとなく教会の雰囲気を味わいたい、という理由で来られてもOKです。いや理由がなくてもいいのです。どなたでも大歓迎です。
何を信じているの?

さてしかし、教会が2000年以上の歴史において何を信じ、何に希望を置いて生きているのか、気になる方のために、少しお話しさせてください。もちろん、ここに書かれていることがすべてではありませんが、一つの概略と思ってお読みください。
聖書は、私たち人間は生まれながらに「罪」を持っていると語ります。
罪というのは法律に違反するということだけではありません。罪の本質は、神に背き、自己中心的に生きることです。
いくらはたからみて「善良」そうな人であっても、例外ではないでしょう。誰でも、基本的には自分中心に物事を考えています。
戦争や紛争という大きな争いから、家庭内の不和やいさかいに至るまで、人が抱く根本的な悲しみや苦しみを引き起こしているのは、人のうちに深く根付きこびりついている「罪」であると聖書は教えます。
そして、神の存在を否定し無視することと、自己中心的に生きることとは深く結びついているのだ、と聖書は言います。私たちの罪こそが私たちを惨めにしているのです。そして、神は聖なる正しいお方ですから、罪を持ったままの人間をそのままにすることはせず、必ず正しくおさばきになるのです。ここに人のみじめさ、悲惨さがあります。
しかし神は、正しいお方であると同時に、「愛」でもあられる、と聖書は言います(ヨハネの手紙第一4章など)。そこで、神は、人を罪と滅びから救い出すために、壮大なご計画を歴史において進展させて来られました。神はそのことを、旧約聖書の時代から預言者(神の言葉を預かって人々に伝える務めを担う人々)を通して語り続けて来られました。
そしてついに、預言の成就として、約2000年前、神の御子であるイエス・キリストがこの世に遣わされました。
イエス・キリストは、ベツレヘムという小さな町の馬小屋で飼い葉おけの中に生まれ、ナザレという寒村に育ち、時至ってご自分が旧約聖書に記されたメシア(救い主・キリスト)であることを証しされました。また、多くの人々の病気を奇跡によってお癒やしになることによって、ご自分の愛をお示しになるとともに、罪の赦しと解放をもたらす神の統治(神の国)が地上に来たことを証明しました。そしてご自分を神から遣わされた救い主(キリスト)であると信じることで、すべての人は罪赦され、永遠のいのちが与えられることを語ったのです。

しかし、そのことが神への冒涜と見なされ、十字架刑にかけられ、死なれて墓に葬られます。ところが、なんとそのことによって、旧約聖書から神が語り続けてこられた預言が成就したのです。
メシア(キリスト)が人々から嘲られ、十字架にかけられて死ぬことによって人の罪の償いを成し遂げることは、すでに昔に預言され、旧約聖書に記されていたのです。つまり、これらすべては神のご意志とご計画によるものであったのです。
そしてそれは、私たちが罪赦され、神と和解し、神の子どもとされ、自己中心の罪から解放されて、神と人との正しい愛の関係に生きるようになるためでした。
そのことがはっきりと明らかにされ、またイエスが神の御子であることが明らかになるために、神はイエスを墓の中からよみがえらせました。これもまた旧約聖書に預言され、記された通りでした。その後、キリストは弟子たちの前に現れて、このことを世界中に知らせることを命じ、弟子を遣わし、教会が誕生しました。この主イエスは、その後天に昇り、いまも生きておられ、王として教会と世界を治めておられます。そして主は、やがて地上に来られ、生きている者とすでに死んだ者とをよみがえらせ、すべてのひとをお審きになり、神の国(神の王としての統治・支配)を完成されると、約束をしてくださいました。
改めて言いますが、これらのことは、すべて神の計画のうちで、イエス・キリストが出現する前から、旧約聖書で長い期間をかけて預言されていたことでした。イエス・キリストは私たちの身代わりとなり、人の罪をすべて十字架上で償われたのです。ですから、自らの罪を悔い改め、イエス・キリストを信じる者の罪はすべて赦されるのです。聖書のテーマは、このような神の壮大な救いの歴史、つまり、罪の赦しと人間の再生のための救済の歴史(出来事)なのです。
「宗教は弱い人が頼るものだ」という人がいます。たしかに、それはその通りかもしれません。しかし、「だから自分には関係がない」と、いったい誰が言えるでしょうか。「自分は強いから、神の助けはいらない」というのは本当に正しいのでしょうか。
聖書は言います。人は、一人も例外なく罪を犯し、本来の造られた姿(これを聖書は「神のかたち」といいます)を損ない、著しく歪んでいて、誤りに満ち、正しい道を見失っているのだと。そして、「自分は強いから、自分には神はいらない」という認識自体が、何よりも罪であり、罪の結果であると、聖書は明確に語っています。
この世界と人間を創造し、あなたを創造した神、そしてあなたを愛してやまない神とともに生きること、それこそが人が人らしく生きる道であり、あなたがあなたらしく生きる道です。そこから外れ、罪ゆえの苦しみの中に落ち込んでいる私たちを救い出すために、神は、イエス・キリストを十字架につけたのです。イエス・キリストは、極度の苦しみと悲しみと恥の中で十字架にかかり、神の怒りと罰を身に受けて死んだのです。この赦しを受け取る事にこそ、人が新しく生まれ変わるの道が開かれるのです。
どうしたらそれが分かるの?

しかし、さらに、こういう疑問を持たれる方もおられるでしょう。「なぜ、聖書の神が唯一まことの神だということができるのか。」「なぜ、世界にはいろいろな神々がいるのに、聖書の語る神だけが本当の神だということができるのか。そういう排他的な考えが醜い争いを生んでいるのではないか。」
今ここで、そのような問いに丁寧に答えることはできません。しかし、次のようなことをよく心にとめてくださったらよいと思います。
聖書の神は、ご自分のことを、「人間が造った神」ではなく、「人間を造った神」であると言われます。ところで人間は、歴史上いろいろな宗教や神々をつくりだしたり、木や岩などの自然に神々が宿ると考えて自然を拝んだりしてきました。
そんな中で、もし、私たちが、いろいろな神々の中から比較検討して、自分の知恵を振り絞って考えて、その中から何かの神を選んで、「よし、これこそがまことの神に違いない」といって信じたり、自分で「神はこういう存在に違いない」と考え出した神を信じているとすれば、それはどんなに心もとないことでしょうか。
自分が選んだり考え出したりした神が、本当に神なのでしょうか。それは、自分たちの頭の中に収まる想像上の神をつくりだし、それを信じているに過ぎないのです。そんなに愚かなことはありません。では、私たちはどうしたらよいのでしょうか。どうしたら本当の神さまを知ることができるのでしょうか。
道はただ一つです。その道は、私たちの側で切り拓くことはできません。その道とは、本当の神さまの方から、私たちにはっきりとわかるように、「わたしが神だ」とご自分をあらわしてくださることです。神さまの方から私たちのところにやってきて、「わたしが神だ」と、自己紹介してくださることです。神さまの方から、はっきりと分かるようにご自分をお示しになってくださって、私たちの内にはっきりと正しい理解力と信仰を与えてくださるほかにないのです。そうでないと、私たち人間がいくら神について考えたり、あまたの神の中から何らか神を選んだりしたところで、それが正しいという保証はないのです。
言い換えればこういうことです。私たちは、神のご訪問を受けるほかにない。神さまの方から私のところに訪問してくださる他にないのです。「わたしが神だ」「わたしを信じなさい」。そして「わたしと一緒に生きて行こう」。そう招いて、私たちの手を引いて、正しい方向へと導いてくださる神のご訪問を受けるほかにないのです。そして事実、聖書に記されている神は、そのようにしてくださったのです。
神は言われました。「わたしは、わたしはある、という者だ」(出エジプト記3章)。不思議な言葉です。この「わたしはある」という言葉は、過去にも、未来にも、現在にも使われる言葉で、したがって、<わたしは永遠の昔から、いつまでもあり続ける>という意味だと言われます。これは、大変重要なことです。
そ うです。教会に来て、洗礼を受けた方々はみな、そのような主なる神のご訪問と力強い自己紹介を受けた方々です。誰一人、「自分の方から正しい神を選びとったのだ」などと言える人はいないはずです。聖書ははっきりいいます。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのです」(ヨハネの福音書15章16節)。
私どもは信じています。主を心から求めるなら、主は、誰のところにも訪れてくださると。まことの神を求めるなら、あなたをも訪ね、「わたしが神だ、わたしを信じなさい」と、はっきりと分かるように招いてくださる。導いてくださる。そして信仰を与えてくださる。そう信じています。なぜなら神はあなたを愛しておられるからです。いやいますでに、主はあなたを招き、「わたしが神だ、私を信じなさい」と、呼びかけておられるのではないでしょうか。
もしそのように少しでもお感じになるなら、「天の神さま」と一言祈ってみて下さい。「あなたがおられるなら、分かるようにしてください」。そういう祈りでもいいのです。その祈りは必ず聞かれています。

いま、祈ることができた方も、まだよく分からないという方もおられると思います。何か、いま述べたことを、信じ込まなければならない、ということではありません。疑ってよいのです。むしろ、疑うことは信仰にとって大切です。
疑わずに信じることは、妄信につながり、危険です。よく疑い、よく考え、よく聖書を読み、そしてなお、神を求めて真剣に祈るなら、必ず神は応えてくださいます。本当の神ならば、人間の疑いによって崩れ去るようなもろい神ではないはずです。
しかし、だからこそ、中途半端ではなく、真剣に、疑ってください。はなからまともに考えるつもりもなく、真剣に向き合おうともせず、暇つぶし程度の疑いではお話になりません。正直に疑い、真剣に考え、真摯に祈り求めてください。そのとき、疑いに十分に耐えうる神であることが分かるはずです。
いずれにしても、一緒に教会で、神さまに礼拝をささげましょう。もっと神さまのこと、信仰のことが分かるはずです。日曜日は都合がつかないという方は、お問い合わせフォームにてご連絡くださるか、お気軽にお電話ください(月曜日は不在にすることが多いです)。少しでもあなたのお役に立つことができれば幸いです。
ここまで長い文章を一所懸命に読んで下さり感謝します。あなたに主の祝福が豊かにありますように!
